古くからの古道、菩提峠と戸谷隧道
ロウソクや松明(たいまつ)を持って歩いたトンネル
大正初期の地図には菩提峠にはトンネルの記載はなし。
山に囲まれた大杉谷村から那谷村、加賀方面に行くための昔からある峠道
さらに、古代には那谷寺から行者が白山に登る禅定道のルートでもあったようです。
白山信仰の遺物がいくつか見つかっています。
小松市那谷町史からの引用
特筆されてよいのは大杉往来である (大正二年)。
今日見ると何故あんな大杉へトンネル(209m)まで掘って道路をつけなければならなかったかと思う
が、その当時は、大杉は500戸近い戸数を持ち、梯川沿いに山を越えて遠く小松(市街地)へ出るよ
りも、那谷を経て江沼平野(加賀市)の経済の中心地である動橋に出る道を切望し、石川県もその
要望を認めて道路開削に踏み切った。
その後、大杉〜小松街道が通じ、時勢の変遷と共に那谷・大杉往来は忘れ去られトンネルと共に
遺物化してしまった。ただし、赤瀬ダムの造成に際し、下大杉の下里武平氏等の要請により大杉往
来は県道に格上げされ、現在毎年何百mかずつ拡張改良されつつあるが、大杉町の衰退に依り、
必要度の低い道路は何時改良工事が完了することか・・・・。
「奈多谷風土記」1989年発行 P.116
結論を言えば、「大杉谷村と那谷村を繋ぐ、生活道路のトンネル」が、小松市に合併後に赤瀬
町と菩提町をつなぐ自動車道路(赤倉林道)が開通となり、大杉町の過疎化と自動車社会という時
代の流れの中で、生活道路としての菩提峠の往来が途絶した、ということです。
軽トラでやっと通れる戸谷トンネルを、普通車で行くのは無理ですから自動車社会ではトンネルの
拡幅工事をしない限り、廃道になるのは必然。
それから、なぜここが県道になったのか?という件に関しては、1960年代に赤瀬ダムの建設が決ま
って、それまでの大杉町から小松市の平野部に行く道路が水没するため、新設した赤瀬町へと向
かう県道が土砂災害などで通れなくなった場合のことを考えて、菩提峠にも車の通れる県道を作る
ことになったようです。県道に昇格した頃には、大杉町には多くの人が住んでいましたが、現在は限
界集落になりつつあり、人口減少が危ぶまれる地域。
2014年現在、県道を管理する石川県側は、厳しい財政の状況の中、もはや交通量が皆無のこの
道路を車両通行止めにして林業用道路のような位置づけにして、道路の補修など、維持管理だけ
はちゃんとしているようです。
なぜ菩提峠が生活道路として利用されてきたか?
このトンネルが計画され、竣工した大正、昭和初期の時代背景を考えると、なぜこんな山奥に小さ
なトンネルが作られたか理解できます。
当時は現在と違って生活の燃料は薪や木炭、つまり木でした。風呂を沸かすのも、ご飯を炊いた
り食事を作るのも、暖房も全部木を燃やしていたから、小松市の山間部には林業で生計を立てて
暮らす人がたくさんいたのは当然だし、小松市に合併する前の大杉谷村には3400人以上(1953年)
の住民が住んでいました。
明治時代の地図をみれば、大杉谷村から小松町や加賀市へ行くには、菩提峠を越えるしかなか
った。木炭や炭は担いで菩提峠を越えて、那谷寺前で運送業者に引き渡すのが日常でしたし、ある
いは、この峠を越えて小松市の山間部の人たちは加賀市に出稼ぎに行った。
まさに小松市の女工哀史「ああ、野麦峠」ならぬ、「ああ、菩提峠」です。
明治時代に加賀大聖寺や金沢は、国家の殖産興業の一環として生糸や織物産業で大発展して
おり、大正から昭和になると現在の加賀市大聖寺、川南、南郷や山中温泉の二天町には大きな工
場が操業し、東北からの出稼労働者や小学校を出たばかりの少女の住み込み労働者がたくさんい
た。
昔は、小学校は義務教育でなかったため、極貧農家の子供は13歳ぐらいになると工場に働きに
出されることも珍しくなかった。
那谷寺からは電車が走っており、加賀の山中温泉へも行けたし、小松の粟津駅にも行けたから、
菩提峠を越えれば、鉄道を利用して日本中にいけるわけで、出征兵士も、出稼ぎ労働もみんなこの
峠を越えていったのです。
好況に沸いた大正時代に日本中の道路が整備される過程で、通行の多い峠にトンネルが造られた
り、あるいは峠を切り下げて自動車が通れるように整備していったという中で、菩提峠もトンネルが
掘られた。小松市の山間部の峠の道路や橋を見れば大正時代に改良されたところが多く、今は廃
道状態の江指町勘定峠付近の橋の欄干にも竣工が大正の文字が見える。
なお、明治、大正期には小松市はなく小松市の山間部は能美郡であった。
いろんな仕事や用事で、多くの人がこの菩提峠とトンネルを歩いていたことは事実であり、お盆や
年末には帰省して来る出稼ぎの少女や若者がたくさん歩いていた、あるいは戦争に行く息子を戸谷
隧道まで見送る家族、悲喜交々の風景が間違いなくあったのですが、今あの寂しい菩提峠と小さな
トンネルが人で賑わっていたというのは、すぐには想像できない。
2014年の冬にスノーシューを履いて、那谷町から戸谷トンネルまで歩いてみましたが、雪深くて寒
い山を越えるのはかなり苦労しただろうと思いました。それでも、年の瀬に家族のもとに帰る人たち
はお土産を担いで早く会いたい、うれしさ一杯でそんな雪道を歩く苦労は気にならなかっただろうと
思いました。
さてさて、車両通行禁止となってしまった菩提峠ですが、森林浴を兼ねたトレッキングとして散策す
るのならちょうどいい遊歩道だと思います。
2006年ごろには雨などの流水で凸凹に荒れていた区間がコンクリートで固められ、戸谷トンネル
の両脇には、菩提峠の山頂部に向かう林業用の道が作られていて、この道路が廃道となる可能性
は低く、今後も林業用の道として管理されていくと思われます。
参考文献:山中町史、加賀市史、加能女人系下巻、奈多谷風土記
聞き取り、福宮町道場せつさん(101歳)
編集2014年4月
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