石川県小松市情報!!

石川県 小松市

小松市 菩提峠の戸谷隧道(大杉トンネル)


石川県小松市 県道43号(丸山加賀線) 戸谷隧道の紹介
〜地図から消えた主要2桁県道〜
幅2メートル、高さ1・7メートル、総延長402メートル


撮影日:2006/06/27 17:50 天候は小雨

一瞬トンネルが遠近法で遠くにあるのかと錯覚してしまうほど、小さく狭い!さらに長い!!
高さ1.7m 幅0.8m!

それからトンネルの中にはコウモリが何十匹といて、中に入るとすごいことになる。
季節的に生息数は違うかも知れないが・・・・行くまで知らんかった・・・・。(=_=)
この日偶然、向こう側から埼玉県からのツーリング・ライダーがやってきて、無数のコウモリが出口から逃げ出すのを目撃!!
阿鼻叫喚の光景でした。
(ToT)


撮影日:2006/06/27 17:50

中はひんやりとしていて出口にいるとクーラーのそばにいるみたい。
何十年とコウモリの巣だから気のせいか異臭もする。(=_=)

フラッシュ撮影は無理。靄(もや)で充満してるから何も写らない。



撮影日:2006/06/27 17:50

訪問した日は6月末の湿度の高い梅雨時でした。
トンネルの中は冷えていて、外は小雨で蒸し暑く湿度が高いのと、向こう側の谷からこっち側へと空気が流れていたので、
写真のように真っ白な煙を吐き出しているような不気味な光景でした。

夕方18時、山奥のこんな小さくて気味の悪いトンネルに入って行くのを私はしばらく躊躇しました。
トンネル開通時は、やはりこの薄暗いトンネルを歩くために大杉谷村など山奥の住民はロウソクや松明(たいまつ)を
持って歩いたそうです。それでも標高334mの菩提峠を越えて歩く苦労から開放された喜びは大きかったはず。




小松市 菩提峠の戸谷隧道(大杉トンネル)




冬に行くと、冷たい風が吹き出ていました。風抜き穴みたいなトンネルでした。

1930年(昭和5年)竣工
Wikipedia参照
北国新聞の記事では1918(大正7年)頃と書いてあった

地元の那谷町の町史『奈多谷風土記』(平成元年発行)によれば、

大杉往来の大杉トンネル
大正2年 長さ209m


※ついに車両進入禁止となりました!!!
隠れた名所も有名になった証拠です。





2000年頃までの道路地図には県道43号線(丸山加賀線)として掲載されていました。
1997年ごろのツーリングマップなど見てみてください。
酷道オタク、オフロードバイクや林道愛好者らの間で絶大な人気と知名度を誇る小松の隠れた“観光名所”。
インターネットで検索すれば、たくさん戸谷トンネルの話題が出てきます。
このトンネルの年間来訪者やネットでの視聴数は何人くらいになるのでしょうか?

くどいようですが、2010年より、車両完全通行止めとなりました。徒歩や自転車で行くことは規制されていません。
小松市の山間部は近年イノシシが爆発的に増えているのと、熊出没しますので、
歩いていく場合は熊よけ鈴を鳴らすなどして、自分の存在をアピールしてください。
こういうことをしない無防備な人が「熊を目撃した!」と通報してニュースを賑わかしています。






大杉町にある赤瀬ダムから行きました。途中こんな
に古い橋があって記念撮影。
「古城橋」昭和37年3月完成とありました。

高さ1.7m 幅0.8m
この車幅は北陸最強(最狭)に間違 いない!!
( ̄△ ̄;)w





古くからの古道、菩提峠と戸谷隧道


ロウソクや松明(たいまつ)を持って歩いたトンネル


大正初期の地図には菩提峠にはトンネルの記載はなし。

山に囲まれた大杉谷村から那谷村、加賀方面に行くための昔からある峠道
さらに、古代には那谷寺から行者が白山に登る禅定道のルートでもあったようです。
白山信仰の遺物がいくつか見つかっています。



小松市那谷町史からの引用

特筆されてよいのは大杉往来である (大正二年)。
今日見ると何故あんな大杉へトンネル(209m)まで掘って道路をつけなければならなかったかと思う が、その当時は、大杉は500戸近い戸数を持ち、梯川沿いに山を越えて遠く小松(市街地)へ出るよ りも、那谷を経て江沼平野(加賀市)の経済の中心地である動橋に出る道を切望し、石川県もその 要望を認めて道路開削に踏み切った。

その後、大杉〜小松街道が通じ、時勢の変遷と共に那谷・大杉往来は忘れ去られトンネルと共に 遺物化してしまった。ただし、赤瀬ダムの造成に際し、下大杉の下里武平氏等の要請により大杉往 来は県道に格上げされ、現在毎年何百mかずつ拡張改良されつつあるが、大杉町の衰退に依り、 必要度の低い道路は何時改良工事が完了することか・・・・。
「奈多谷風土記」1989年発行 P.116




 結論を言えば、「大杉谷村と那谷村を繋ぐ、生活道路のトンネル」が、小松市に合併後に赤瀬 町と菩提町をつなぐ自動車道路(赤倉林道)が開通となり、大杉町の過疎化と自動車社会という時 代の流れの中で、生活道路としての菩提峠の往来が途絶した、ということです。

 軽トラでやっと通れる戸谷トンネルを、普通車で行くのは無理ですから自動車社会ではトンネルの 拡幅工事をしない限り、廃道になるのは必然。

 それから、なぜここが県道になったのか?という件に関しては、1960年代に赤瀬ダムの建設が決ま って、それまでの大杉町から小松市の平野部に行く道路が水没するため、新設した赤瀬町へと向 かう県道が土砂災害などで通れなくなった場合のことを考えて、菩提峠にも車の通れる県道を作る ことになったようです。県道に昇格した頃には、大杉町には多くの人が住んでいましたが、現在は限 界集落になりつつあり、人口減少が危ぶまれる地域。
 2014年現在、県道を管理する石川県側は、厳しい財政の状況の中、もはや交通量が皆無のこの 道路を車両通行止めにして林業用道路のような位置づけにして、道路の補修など、維持管理だけ はちゃんとしているようです。

なぜ菩提峠が生活道路として利用されてきたか?


 このトンネルが計画され、竣工した大正、昭和初期の時代背景を考えると、なぜこんな山奥に小さ なトンネルが作られたか理解できます。

 当時は現在と違って生活の燃料は薪や木炭、つまり木でした。風呂を沸かすのも、ご飯を炊いた り食事を作るのも、暖房も全部木を燃やしていたから、小松市の山間部には林業で生計を立てて 暮らす人がたくさんいたのは当然だし、小松市に合併する前の大杉谷村には3400人以上(1953年) の住民が住んでいました。

 明治時代の地図をみれば、大杉谷村から小松町や加賀市へ行くには、菩提峠を越えるしかなか った。木炭や炭は担いで菩提峠を越えて、那谷寺前で運送業者に引き渡すのが日常でしたし、ある いは、この峠を越えて小松市の山間部の人たちは加賀市に出稼ぎに行った。
 まさに小松市の女工哀史「ああ、野麦峠」ならぬ、「ああ、菩提峠」です。

 明治時代に加賀大聖寺や金沢は、国家の殖産興業の一環として生糸や織物産業で大発展して おり、大正から昭和になると現在の加賀市大聖寺、川南、南郷や山中温泉の二天町には大きな工 場が操業し、東北からの出稼労働者や小学校を出たばかりの少女の住み込み労働者がたくさんい た。
 昔は、小学校は義務教育でなかったため、極貧農家の子供は13歳ぐらいになると工場に働きに 出されることも珍しくなかった。

 那谷寺からは電車が走っており、加賀の山中温泉へも行けたし、小松の粟津駅にも行けたから、 菩提峠を越えれば、鉄道を利用して日本中にいけるわけで、出征兵士も、出稼ぎ労働もみんなこの 峠を越えていったのです。

好況に沸いた大正時代に日本中の道路が整備される過程で、通行の多い峠にトンネルが造られた り、あるいは峠を切り下げて自動車が通れるように整備していったという中で、菩提峠もトンネルが 掘られた。小松市の山間部の峠の道路や橋を見れば大正時代に改良されたところが多く、今は廃 道状態の江指町勘定峠付近の橋の欄干にも竣工が大正の文字が見える。

 なお、明治、大正期には小松市はなく小松市の山間部は能美郡であった。

 いろんな仕事や用事で、多くの人がこの菩提峠とトンネルを歩いていたことは事実であり、お盆や 年末には帰省して来る出稼ぎの少女や若者がたくさん歩いていた、あるいは戦争に行く息子を戸谷 隧道まで見送る家族、悲喜交々の風景が間違いなくあったのですが、今あの寂しい菩提峠と小さな トンネルが人で賑わっていたというのは、すぐには想像できない。

 2014年の冬にスノーシューを履いて、那谷町から戸谷トンネルまで歩いてみましたが、雪深くて寒 い山を越えるのはかなり苦労しただろうと思いました。それでも、年の瀬に家族のもとに帰る人たち はお土産を担いで早く会いたい、うれしさ一杯でそんな雪道を歩く苦労は気にならなかっただろうと 思いました。


 さてさて、車両通行禁止となってしまった菩提峠ですが、森林浴を兼ねたトレッキングとして散策す るのならちょうどいい遊歩道だと思います。

 2006年ごろには雨などの流水で凸凹に荒れていた区間がコンクリートで固められ、戸谷トンネル の両脇には、菩提峠の山頂部に向かう林業用の道が作られていて、この道路が廃道となる可能性 は低く、今後も林業用の道として管理されていくと思われます。






参考文献:山中町史、加賀市史、加能女人系下巻、奈多谷風土記
聞き取り、福宮町道場せつさん(101歳)
編集2014年4月




2011年現在、戸谷隧道の上には林道が開削されています。



明治43年に測量された地図にはまだトンネルはなし



戸谷隧道(大杉トンネル)ができる前に、菩提峠の頂部に置かれていた地蔵。
現在は菩提町と那谷町の県道の境界に安置されています。



北国新聞の記事より引用
2009年06月19日朝刊

◎街を歩くと 〔小松市・戸谷トンネル〕 
普通車通れぬ県道 役目終え利用者わずか 隧道愛好者には人気

 先日、知人から面白い話を聞いた。小松市内の山間部に、普通車が通れない県道があるそうだ。中でも途中にある長 い隧道(ずいどう)は、軽自動車でも通り抜けできるか分からないという。それでいて、「隧道マニア」には有名な個所だと か。興味津々で訪ねてみた。

 市街地から車で走ること約40分、その道はあった。菩提(ぼだい)町と大杉町を結ぶ延長1672メートルの県道43号 線(丸山加賀線)。大杉町側から桜橋を渡ると、次第に道幅が狭くなった。路面は舗装されておらず、凹凸だらけ。「本当 にこれが県道なのか」と思いながら進むと、隧道が見えてきた。何だか薄気味悪い。

●コウモリの巣


 入り口に、高さ1・7メートルまで、幅0・8メートルまでの進入制限を示した標識が立つ。県によると、県道は通行不能 区間に位置付けられ、隧道は原則立ち入り禁止としている。県の許可を得た上で中に入り、遠く見える出口の光を頼り に歩き始めた。少し進むと、コウモリの羽ばたきが聞こえる。懐中電灯で上を照らすと、コウモリの巣も。思わず大声で 叫んでしまった。

 県南加賀土木総合事務所によると、隧道は戸谷トンネルといい、幅2メートル、高さ1・7メートル、総延長は402メート ル。なるほど、軽自動車も通れるかどうかの大きさだ。開通したのは1918(大正7)年で、木炭を生産する大杉村(現大 杉町)の住民が市街地に出掛ける際に利用していたそうだ。

 大杉町の上内友治さん(73)によると、子ども時代、加賀や那谷方面に出稼ぎに行った父親に会いに行く時に使ったと いう。「住民にとっては思い出のトンネル」と話す。

 しかし、炭の生産量と村の人口が減少していくと利用者も次第に減り、1973(昭和48)年に赤瀬ダムの着工に伴い県 道161号線(大杉長谷線)が整備されると、ほとんど使用されなくなった。崩落と補強を繰り返すうちに現在のように狭く 低くなり、通行人をますます遠ざけてしまった。

 現在、地元では、農作業をする人がわずかに利用する程度。それでも、トンネル好きの愛好者がいて、年間100人程 度が訪れるという。

●拡幅の予定なし

 通行は危なくはないのか。県によると、開通から65年間は岩盤がむき出しの状態だったが、83年にH型鋼で補強して おり、耐久性に関しては問題ないという。ただし、「費用対効果」の観点から、拡幅の予定はないそうだ。

 かつては大杉の住民の「動脈」だった県道。慌ただしい日常を忘れるため、森林浴のついでに訪ね、町の歴史に思い をはせるのも悪くない。(佐野裕樹)



那谷町の人にトンネルの話を聞いたら、昔はコンクリートで補強されておらずに、岩肌が露出していて、崩壊していた。
しばらく通行できなかったときがあったということで、崩落と補強という維持管理の面でも厄介なトンネルだったようです。
それから、地元のご隠居たちは、県道なんだからさっさとトンネルを自動車が通れるように改良してもらいたいものだ、ということでした。



2014年、雪の菩提峠(戸谷隧道)を歩く!!
スノーシューで、雪の戸谷隧道を見てきます。 

2009年、戸谷隧道走破記録!!
2012年の戸谷隧道の車両通行止め以前に、軽トラで走破した記 録です。




戸谷隧道の動画
※小松市大杉町より戸谷隧道に行く動画

※戸谷隧道大杉側入り口付近の映像

※戸谷隧道 大杉→那谷

※戸谷隧道 那谷→大杉









トップへ


戻る
戻る
直前のページへ
直前のページへ


Copyright(c) 2006-2016. 小松だよ!全員集合!! All rights reserved. 
inserted by FC2 system